志賀島の歴史シリーズ② 海の神様〜綿津見神と安曇族〜

前回の蒙古襲来編で少し触れた、志賀海神社に祀られる「綿津見三神」。今回はここを起点に、志賀島の歴史をもう少し深いところまで掘り下げてみようと思います。

綿津見神はどこから来たのか

古事記にこんな場面があります。

黄泉の国から戻ったイザナギノミコトが、穢れを祓うために海で禊をおこなった。その時に生まれたのが、底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神の三柱——いわゆる「綿津見三神」です。

綿津見(わたつみ)とは、海そのものを指す古い言葉。この三神は海の底・中層・表層をそれぞれ司るとされ、日本における海の神様の根源的な存在です。龍宮伝説の元にもなったと言われていますし、「海神(わたつみ)の神」という言葉は万葉集にも登場します。

なぜ志賀島なのか

その綿津見三神を祀る総本社が、志賀島にある志賀海神社です。

全国に綿津見神を祀る神社は数あれど、総本社がこの小さな島にある。これはどういうことかというと、古代においてこの島が「海の玄関口」として特別な場所だったからだと思います。大陸との交易・外交ルートの起点であり、玄界灘に出ていく漁師たちが命を預けた海の神様の聖地——そういう場所として、志賀島は選ばれたのでしょう。

島で生まれ育った人間として言わせてもらうと、志賀海神社には今も独特の空気があります。観光地というより、現役の聖域という感じ。それは1800年以上続く信仰の積み重ねがそうさせているのかもしれません。

安曇族という海人たち

綿津見神と切っても切れない関係にあるのが、「安曇族(あづみぞく)」という一族です。

実はなんと、現代においても代々志賀海神社を守るのは安曇さんなのです。

安曇族は綿津見神の子孫とされる海人族で、古代に志賀島を拠点として玄界灘を泳ぎ回っていた人たちです。彼らは漁をするだけでなく、朝廷に仕える海の民として、外交や物流の担い手でもありました。

日本書紀には安曇族の祖・安曇連濱子(あづみのむらじはまこ)が神功皇后の三韓征伐に従軍したという記録が残っています。海の民らしく、船を率いて戦いに加わったわけです。

この安曇族がどこから来て、その後どこへ広がっていったのか——それはまた後々に続く話になるのですが、実は彼らの足跡は志賀島からはるか遠い場所まで伸びています。また続きはいずれ書こうと思います。


満帆荘 店主