志賀島の歴史シリーズ①蒙古襲来

志賀島の歴史 ~蒙古襲来編~

志賀島の歴史は古く、島内にある志賀海神社に祀られる綿津見三神から始まり、その一部は歴史の教科書にも収められています。

今回はその中から、教科書にも登場する「蒙古襲来」についてお話しします。


モンゴル帝国とは

モンゴル高原の遊牧部族だったチンギス・ハンが1206年に建設した国家です。初代皇帝チンギスはモンゴル高原から中国北部・中央アジアに及ぶ大帝国を築き上げました。

第5代皇帝フビライ・ハンの時代には、その支配圏は朝鮮半島や西アジア、さらにはロシアやヨーロッパ西部にまで広がり、地球上の陸地の実に20%以上を治めたと言われています。

1271年、フビライはモンゴルと中国にまたがる領域に「元」という王朝名を付け、首都を大都(現在の北京)へ移しました。やがてその目は日本へも向けられることになります。


文永の役(1274年)

今からさかのぼること750年前の鎌倉時代中期、ユーラシア大陸のほとんどを征服したモンゴル帝国が日本へ侵攻してきました。これが文永の役・弘安の役の二度にわたる蒙古襲来(元寇)です。

1274年10月、モンゴル軍2万と高麗軍1万数千が朝鮮半島から出航。対馬・壱岐を蹂躙したのち、博多湾へ上陸し鎌倉幕府の軍勢と激突しました。

日本軍は集団戦法に苦戦しながらも奮戦。モンゴル軍は夜のうちに撤退しましたが、その理由には諸説あります。日本の武士が想像以上に強かったこと、大将が負傷したこと、あるいは最初から武力の誇示が目的だったこと——いずれにしても日本軍が守り切ったのです。


弘安の役(1281年)と志賀島

文永の役に続き、フビライは再び日本遠征を決意。東路軍4万と江南軍10万、合わせて14万という空前の兵力で九州を目指しました。

しかし時宗はすでに博多湾沿岸に防塁を築き、鉄壁の防御態勢を整えていました。どこからも上陸できないまま作戦に行き詰まった東路軍が次に目を付けたのが、防塁のない志賀島です。

島の周囲に軍船を並べて守りを固めるモンゴル軍に対し、日本軍は逆襲を仕掛けます。海の中道から陸路で、さらに海からも総攻撃。狭い志賀島に固まっていたことが仇となったモンゴル軍は、得意の集団戦術も発揮できず撤退を余儀なくされました。

その後、東路軍と合流した江南軍が鷹島を根拠地に再起を図りますが、7月30日夜半に台風が九州一帯を直撃。4千隻あった船が一夜明けると200隻しか残っていなかったと言われています。こうしてモンゴル軍は撤退し、日本は守られたのです。


蒙古襲来にまつわる志賀島の史跡

激戦の舞台となった志賀島には、今もいくつかのゆかりの地が残されています。

蒙古塚
台風で難破し処刑されたモンゴル軍兵士の魂を鎮めるために祀られた首塚。島の西側にあります。

火焔塚
高野山の高僧が敵国退散を祈願した祭壇跡。

また、福岡県内の海岸線には今も元寇防塁が残されており、当時の激しい戦いの歴史を物語っています。

歴史好きな方には、ぜひ現地で感じてほしい場所です。

満帆荘 店主